人を紹介するための条件(人間関係の計算)
今回の記事は「人間関係における計算」についてです。
皆さんは友人に異性を紹介したことはありますか?
もしくは、紹介してくれと頼まれたことは?
私はどちらの経験もあります。
同僚に女性を紹介してくれと頼まれましたが、別の男に紹介しました。
同僚に女性の紹介を頼まれたとき、私はつい、はぐらかしました。
当てがなかったわけではありません。女性の友人は多くありませんが、その時はたまたま、彼女の友人が出会いを求めているとの話を聞いていました。
後は日程を調整して適当なお店を予約するだけ、それほど大変な作業ではありません。
ではなぜ紹介を避けたのか。
それは同僚があまりモテるタイプではないからです。
男同士、友人として上手く付き合っていましたが、女性に自信を持って紹介できるかと考えると、そうではありませんでした。
私は考えました。
彼女や彼女の友人から、紹介されるのがどんな男なのか聞かれるでしょう。格好いいのか?どんな性格?休みの日は何を?
ポーカーのようなもので、自分の手札を良くみせることはできますが、実際に会った時に3のワンペアでしたでは、相手にガッカリされてしまうでしょう。
それがポーカーだと言い張ろうかとも考えました。でもこれはポーカーではありません。合コンです。
かといって自分の友人を悪く言うのも心苦しいとなれば、自信をもって紹介できる人間を紹介するしか手はありません。
だから他の男性を紹介することにしたのです。
人間関係には多くの計算が必要です。
今回の1件においては、私と同僚や彼女との関係、彼女と友人の関係などに対して、私の言動が与える影響を考えなければいけません。
しかし一方で、計算や打算のない関係性があれば良いのにとも思うのです。
私の勝手な考えで人を判断するのは、同僚がモテないと思うのも、彼女と友人もそう思うだろうと想像するのも、相手に失礼なような、見下しているような気がするのです。
自分や人が傷つかないように計算をするのが「優しさ」でしょうか。それとも、あまり気にせず人を信じて任せるのが「優しさ」でしょうか。
どちらも必要だと思いますが、なんだか難しいですね。
つまり何が伝えたいかというと、合コンのセッティングはもうこりごりだということです。
ジダンとマテラッティと女性用下着について
今回の記事は、私の後悔の記憶についてです。
皆さんはジダンというサッカー選手が試合中に相手チームの選手へ頭突きをした騒動を覚えていますでしょうか。
私も最近ふと思い出しましたが、調べてみると2006年FIFAワールドカップ決勝のイタリア対フランス戦で起こったことで、もう14年ほど前のことらしいです。
確かに、私はまだ小学生で、10歳か11歳ぐらいだった記憶があります。
なぜ当時のことを覚えているかというと、友達との間で「ジダンッ!」と言いながら頭突きをするのが流行ったからです。
同じようなことをしていた方もいるのではないでしょうか。
なにも本気で攻撃をするわけではなく、悪口やムカつくことを言われたら頭突きをし、相手もそれを甘んじて受け入れるという遊びです。
実際、ケンカになりそうなこともお互い笑ってすませられるのですから、いま思えば、なかなかに画期的なシステムでした。
さすがサッカー選手、さすがフランス代表ですね。素晴らしいです。
ただ小学生の遊びですから、すぐに飽きがきました。
ニュースで取り上げられることも段々と少なくなっていたでしょうし、ジダンを呼びながら頭突きをすることしかできないのですから仕方のないことです。
しかし、子供の遊びに対する貪欲さはなかなか侮れないもので、我々はとある人物に目をつけました。
学校でジダン頭突きを受けた人間はマテラッティにちなんで「殴っティ(なぐってぃ)」、「蹴っティ(けってぃ)」と言いながらの反撃が許されるようになりました。
誰が始めたのかは分かりませんが、もはやルールになっていました。そんなもんです。
そしてあの日、私の記憶に深い後悔が生まれた日、
普段あまり遊ばない子がジダン頭突きを受けました。
遊ばないとはいえ同じ教室でのことですから、彼はなんとなくルールを理解しており、反撃のパンチを繰り出しながら大きく叫びました。
「パンティ!!」
彼がルールを破ったのは誰の目にも、あるいは耳にも明白でした。
いま思えば流しても良いような、どんなに重く見積もってもイエローカードで済むようなことですが、まだ幼く性に対して免疫のない私たちは、彼の反則に過剰に反応しました。
大勢で笑い、からかい、必要以上に彼を傷つけたのです。
性に対して敏感だったのは彼も同じだったはずなのに、私たちは相手の気持ちを考えることができていませんでした。
もしあの日に戻れるのなら、彼の隣に立って「俺もパンティは大好きだ」と言いたい。みんな同じだと、君は1人じゃないと伝えたい。
彼のような思いをする人を1人でも減らすために、私たちは相手の立場になって考えること、思いやりを持たなければいけません。
色々な角度から見るという事
連日の猛暑と新型コロナの流行に閉じ込められ、仕方なく冷房の効いた自宅で読書をしていると、
「あぁ、これはとても大切なことだな。気をつけなければいけないな。」と感じるセリフがありました。
小説のネタバレを避けるため人物と状況は伏せますが、以下のセリフです。
「そのただ一点を除けばそんなに悪い奴らでもなくて、お前も俺も、誰かの一番醜い部分を指差して、人でなしだ、許せないって叫んでるんじゃないのか。」
(「屍人荘の殺人 」今村昌弘 創元推理文庫)
はい。すみません。気をつけます。
皆さんも思い当たる節があるのではないでしょうか。
人や物事は多面的で、立場や距離によって違った見え方がするものです。
当たり前のことですが、つい忘れてしまいがちです。
もしかしたら人間というのは、危険などから逃げられるよう、ネガティブなことによく気が付くようにできているのかもしれませんね。
悪いことは悪いですし、それを罰することや改善することは、もちろん正しいことです。
しかし、このブログの主題である「優しさ」を持とうとするならば、悪に対して、その事情を慮ること、別の面に目を向けること、接し方を考えることこそ大切なことだと思います。
つまり何が言いたいかというと、「良いところを探そう」と「自分がされて嫌なことはするな」ってことですね。
ちなみに、今回の記事でセリフを紹介させていただいた「屍人荘の殺人」は密室殺人のミステリーなのですが、その密室の作り方が斬新で驚きました。
実写映画化もされているので、ご存知の方も多いかと思いますが、原作の小説もとても面白いので、ぜひ読んでみてください。
声をかけるか、かけないか
都営地下鉄大江戸線の中井駅で知人と待ち合わせをしていた時のこと。
30分ほど早く着いてしまいましたが、23時過ぎで喫茶店なども閉まっていたため、周辺を散歩することにしました。
(1人で居酒屋に入る勇気はありません。憧れています。)
中井駅近くの川沿いの小さな道を歩いていると、向かいから杖を持った女性が歩いてくるのが見えました。
杖といっても体重を預けるためのものではなく、目の不自由な方が障害物の確認などに使用するものです。(白杖というようですね。)
女性は酔っているのか独り言を呟きながらフラフラと歩き、また、全盲というわけではないようで、時折、じっと周りの様子を確認していました。
私は声をかけることができず、そのまますれ違いました。
待ち合わせの時間が近づき、中井駅に戻っていると、先ほどの杖を持った女性が大学生くらいの男性と並んで歩いていました。
どうやら西武新宿線の中井駅に向かっているようで、男性は肩や肘に捕まらせてはいませんでしたが、女性に合わせてゆっくりゆっくりと歩き、段差や障害物を教えながら、楽しそうに談笑していました。
私は知人と合流し、散歩中に見つけた近道や行ってみたいお店のことを話しましたが、杖を持った女性と大学生くらいの男性の話をしませんでした。
私は女性に声をかけるのが怖かったのです。
もっと正確にいえば、声をかけて拒絶されること、あるいは、酔った女性と話が通じず面倒なことになるのが怖かった。
しかし実際には、女性は楽しそうに雑談をし、行き先を明確に伝えていました。
男性には、私が感じた恐れはなかったのでしょうか。それとも恐れを感じてなお、声をかけたのでしょうか。
いずれにしても、彼の行動が立派であり、このブログの主題である「優しさ」に満ちていることは間違いありません。
皆さんはどうでしょう。彼のように困っている人に声をかけることができますか。
私は、あと何度このような記事を書けば、彼のような人間になれるのでしょうか。
はじめまして
はじめまして、「優しくなりたい人」です。
このブログでは、私が優しいなと感じた事柄について書いて行きたいと思います。
(知人の言葉、本の内容、町や施設の工夫など)
私は事あるごとに、優しい人になりたいなぁ、と考えていました。
例えば、人に優しくされたとき、友人が思いやりのある行動をとったとき、本や映画で登場人物が立派な行いをしたとき。
でも、そういった気持ちは直ぐに忘れてしまうもので、思い出すたびに何も変わっていない自分を恥じていました。
そして、その恥も直ぐに忘れてしまうのです。
このままでは埒が明かないので、記録をつける事にしました。
それがこのブログです。
私が初心を忘れないためのものですが、皆さんが読んで優しい気持ちになってくれたら嬉しいです。
みんなで少しずつ優しくなっていきましょう。
よろしくお願いします。